にこ繭。(cocoonPのBlog)

はてなダイヤリーからインポートしたかつてのBlogの跡地です。

こんにちは、「プロデューサー」です。

昨日のうちにL4Uは全実績を解除しました。実績解除だけなら本当にあっという間に出来ますね。音ゲーあんまり得意じゃないのでいまだにHARDのエージェントを完走できなかったりするのですが。


さて、敷居さんとの語り合いが続いていますが、またお返事があったようで。

敷居の先住民 「目新しさのアピールは「技術」ではない?」(id:sikii_jさん)より

というか僕のような見る専とは違ってcocoonPは作るほうの人ですから、この記事への反応は遅くてもいいしスルーされても気にしませんので、気楽に読んでくださいな。

すぐに反応しようかと思っていたのですが、思ったことをつらつら書いていたらだいぶ長くなってしまったので遅くなりました。主に「ニコマスPと視聴者ブロガー」のそれぞれの立場の違いにる着眼点や受け取り方の違いということについて書こうと思います。多少脱線しますが。

Pとブロガーだって同じ地平に立っている

敷居さんとのやり取りをご覧になっていたtag-no-nameさんからこんなTBをいただきました。

飛んでから見れ! 「そとのせかいのはなし」(id:tag-no-nameさん)より

少し違う言葉を話している。
ボクの世界ではその言葉は愛を意味しない。ボクの世界の愛はこれだけだ。
いやいや、ボクの世界じゃその言葉も愛を意味する。ボクの世界の愛はそれだけじゃない。

敷居さんご本人もお書きになっていますし、tag-no-nameさんも「でもお互いそれを理解したうえで話し合っているようにも見える。」とお書きになっていますし、自分も前のエントリで「結局同じことを違う切り口で言っているに過ぎない」と書いていますが、このやりとりというのは、まず現状認識はみんな足並みが揃っていて、それに対する嗜好が異なるだけなんですよね。
だから、そもそもかみ合っていないし、かみ合う必要がないんですね。議論しているのではなく、同じ事実に対してそれぞれ自分の思っていることを書いているだけですから。

そこで、敷居さんは下記のように書いています。

だってですね、見る専が詳細な感想を述べれば間違ってる部分が出るのは当たり前じゃないですか。技術に一切触れない感想はそもそも詳細な感想とは言わないでしょうし。それを危険と言ってしまうと何も書けなくなってしまいます。作品に詳細な感想を述べることが出来るのは、全ての技術を理解できる作者のみということになりかねません。感想ブログ消えます。それは望むところではないでしょう?
むしろ、僕は間違ってる部分があれば直接指摘して貰える環境のニコマス界隈ってまだ恵まれてると思うんだよなあ。「間違っててもいいからガンガン感想言え、間違ってたら指摘してやるから」くらいに構えててくれるとありがたいっす。いや、そりゃ動画コメントで間違ってる理解を思いっきり垂れ流されたら嫌だろうけどさ。ブログなら直接指摘できますし。

まさに同じように思います。だからこそ先日の「悲しいのです」というエントリで自分が望んでいた、交流を閉じないでくれという想いがあるわけです。あの自分のエントリの、ブロガー側の立場のひとつがこの敷居さんの想いなのではないでしょうか。逆に以前のカズマさん(id:hunirakunira2さん)のように影響を排したいという立場もあるわけですし。

とはいえ、自分が欲しいのは表面的に当たり障りのない馴れ合いを行う仲良しクラブではありません。同エントリで書いた承認欲求のほかにも、忌憚なく意見を述べ合うことができる交流というのには、さまざまなメリットがあると思うのです。そのためには、Pが神のごとくあがめられていて一挙手一投足について全肯定では話になりませんし、「自分で書いた漫画をまわし読みしている小学生」という例を前に出しましたが、そういうフラットでフランクな関係が欲しいのです。

もちろんcocoonPが言いたいのはそういうことじゃなくて、口を出すのはいいけど中途半端な理解で技術についてああだこうだ言ってはいけない、という意味だと思いますが……それも僕は閉じていく方向だと思う。それでは「優れた批評を行うことができる視聴者」がそもそも育たないんでないかと。

なので、「ああだこうだ言ってはいけない」とも言っていません。これは、敷居さんのエントリへのブックマークコメントで、id:mahalさんが「何か俺が以前のCocoonPのぶこめに書いた歴史を繰り返してるような気がしてきたぞ。」とお書きになっていたことへの返答でもあるのですが。
「それは閉じていく方向だと思う」という件ともあわせ、自分がなぜそう述べるかというと、IRCチャンネル「#ニコニコアイマスPの集い」では、基本的にはバカ話をしたりニコニコの動画URLを貼ってみんなで見て感想を共有したりしている一方で、製作中の動画を内輪用のアップローダーに上げて意見を求めるときなど、かなり厳しい批評も飛び交っている、という中にいるからです(批評に対するそれは違うんじゃないかという指摘ももちろんあります)。でも、その批評というのは決してあら捜しではありませんし、互いにリスペクトしあっています。そのうえで、たとえしーなPやわかむらPに対してでも皆平気でツッコミを入れられる空気があるのです。
これは、普段からフラットな関係が築けているからこそ出来ることではあると思うのですが、こういった関係がP同士、それもIRCの上記チャンネルに参加している人という限られた人の間だけで構築されているのは、とてももったいないと思うんですよね。
だから、「『離れたところにいて』ああだこうだ言うのではなく、もっと近くで言ってくれよ」ということでもあり、作っていなければわからないことなら、近くにいる作っている奴に気軽に聞けばいいじゃないか、と思うのです。なので、自分が言いたいのはむしろ逆に「批評するのであれば、閉じるな」なんですよね。

作る側と見る側で視線の位置や見ている先が違うのは当然のことなのですが、その視線の「高さ」まで変えることはないじゃないですか。いまの見る側の記述スタイルは、「下から見上げる」か、「上から見下ろす」かのどちらかの視点でしか書かれていなくて、同じ高さで見てはいないように感じるのですよ。もっと「〜だと思うぜ」「ばっかお前何言ってんのこうに決まってんだろ」みたいな。

もちろん、上から目線で批評するような、いわゆる評論家然とした記述もあっていいと思うし、あるべきだとも思っています。ただ、そういった人に対して、まだ自分がそういうものを見たわけでもないのに、まだ見ぬ評論家さんに対して苦言を呈しているのが「〜危険」という自分の発言です。
創作物に対する批評というのは、それだけで本を書いて売ることが出来るように、それそのものがひとつの創作活動なんですよね。最近は、『「買ってはいけない」は買ってはいけない』の例のように、批評に対する批評本ですら出ている世の中です。批評と感想を殊更に分けて考える必要もないとは思うんですけどね。


最近のやりとりでひとつ感じるのは、敷居さんにせよカズマさんにせよ、「自分のところは、感想を述べているだけで技術的な解説を試みているblogなわけではない」とおっしゃっていますが、自分はニコマス界隈のblogで、純粋な「見る側」の方が技術的見地から動画を解説しているサイト、というのをあまり見かけないな、ということです。花見川さんのニコ部ダイヤリーは比較的そういう立場にあったと思いますが、最近あまり更新されていないようですし。
yet anotherが存在しないのに、そういうの見たければそっちに行ってね、というのは、意地悪な言い方をすればひどい責任転嫁だな、と。敷居さんだってカズマさんだってたくさん動画見てるんですから、挑戦してみてくださいよ。*1


で、カズマさんの時にはこちらから心の扉をこじ開けに行きましたけど、敷居さんや花見川さんたちとは、ニコ部やtwitterを通じてフラットな関係を築けていると自分は勝手に思っています。普段は、かなりバカ話ばっかりしてるじゃないですか。

面白いのは、自分が敷居さんにもカズマさんにも「根っこのところでは同じ」と言われているところでしょうか。どう同じなのかな、と考えると、外に対し自分の中の何かをアウトプットしたがり、そしてそれを見てもらいたがるエンターテイナー気質であるという点かなーという気がするのですが、どうでしょう。

創作の分野で機械に人間が負けるわけにはいかないのだよ

以降は、敷居さんのエントリの「技術的な部分」に対しての反応です。

再度、敷居の先住民 「目新しさのアピールは「技術」ではない?」(id:sikii_jさん)より

まあぶっちゃけ僕の目から見るとこっちのほうが手間かかってるし技術的にも凄いように見えるんですな。

じつはこういうのは、見る側と作り手ではだいぶ違う感想になると思います。ニコで受けている、「技術的にすごいように見える」動画は、たいていの場合、Adobe AfterEffects、もしくはさらにそれとtrapcodeなどの高価なプラグインを組み合わせているものがほとんどです。
ぶっちゃけると、すごいのはツールであって作り手じゃないのです。さすがに高度なツールはタイムラインに乗せてボタンをポン、で使えるというわけでもないのですが、それでもおそらく見ている方が想像しているよりは遥かに楽に「格好いい」映像的効果を加えることができます。じっさい、それらのプラグインなどの販売サイトの惹句をごらんいただければわかると思います。

自分は、AEなどの高価なツールを使っているニコマスPは大まかにわけて次の3通りに分けられると考えています。VS9の特別体験版やWindowsムービーメーカー、あるいはAdobe Premiere ElementsやVS11、EDIUS NEO、SONY Vegas Movie Studioなどの、1〜2万円程度の比較的安価なソフトからPVを作り始めて、いくつか作っているうちに使っているツールだけでは限界を感じグレードアップさせていく人(魔汁Pもそうですし、自分とかもそうです)、もともと静止画MADなどを作っていてそれに使っていた人(AtollPなど)、そして映像のプロ(元含む)やそれに類することを生業にしている人(わかむらPなど)です。
そういったツールの出力できるものを効果的に組み入れ格好よくみせるのには、それなりに培ったセンスが必要、という見方も出来ますが、先にあげた3通りのタイプはどれもすでにある程度の経験を積んだ方であり、その辺りはある程度心得ている人が使っているため、高度なツールを使った稚拙なもの、という動画が存在しないわけです。

同じことを安価なビデオ編集ソフトで出来ないのか、といわれたら、答えとしては「出来ないことはない」になります。自分がかつてやっていたように、すべてのフレームに対して静止画像編集を行えばいいのですから。Photoshop ElementsやPaint shop Pro、GIMP2など、高度な静止画像編集を行える、安価な、あるいは無料のソフトウェアはたくさんあります。
ただ、ご想像いただけるように、それらの作業は非常に労力がかかります。そこで高度なツールの登場となるわけです。先にあげた3タイプの使い手いずれにも共通しているのは、そういったツールは省力化と効率化のために使われているというところがポイントです。


だから、ツールによる演出に対して、作り手側は、それが効果を上げるなら使ってみたいな、とは考えますが、技術的感銘はあまり受けないことが多いのです。いや、一般化して語れるほど多くのPの本音を聞いたわけではありませんが、少なくとも自分はそうです。そしてそういう演出が「技術」の本質ではないということは効果を入れる作り手もおそらくわかっていて、ニコマスPの集まるIRCではこういったものは自嘲的に「厨演出」*2と呼んでいたりします。

僕が使い方を間違っているんなら「目新しさの魅力」なり別の言葉に置き換えることに抵抗はありませんが……cocoonPの定義する「技術」ってさすがに範囲狭すぎません?

なぜこう考えるのかというと、自分は「映像の創作」を目的としてニコマスMADを作っている立場ではないので、アイマスMADにおいて「グロー&ベガスのパスに沿った光が格好いい」「trapcodeのキラキラパーティクルが格好いい」「シャターで飛ばした羽根が格好いい」ということにあまり価値を感じないからなんですよね。それはべつにアイマスMADじゃなくたって出来ることだから。
映像の製作(鑑賞)が目的でアイドルマスターは二の次、という方にとってであれば、それは技術のうちの一つかもしれませんが、それについて「技術」ではないと感じる理由は、前述のとおり「すごいのはツールであって作り手じゃない」という点につきます。

「派手な演出のみを技術だと思いこむ」のが見る側が陥りやすい錯誤であるなら、「ウケるためのアピールは技術ではない」と切り捨ててしまうのもまた、作る側が陥りやすい錯誤なのではないでしょうか。

なので、それを前面に出されても、「あー、きれいだねー」としか感じないわけです。ただ、これは「どういう手段で作られているのか」が、見ただけでわかる作り手側の感想なんだということは重々承知の上で、なのですけどね。

少し話が飛びますが、自分はそれよりも、「この美希可愛いね」「楽しそうに踊っている」「本当に歌ってるみたいだ!」とかそういった部分に価値を見出します。そして、これには編集技術が不可欠ですし、そういった部分については基本的に使用するツールを問いません。同じように、動画に効果を追加するのでも、自分が見せたい、見てみたいのは「Pの映像製作における製作環境の豪華さ」ではなく、それを使って表現されたアイドルの可愛さとかそのほかいろいろなのです。エフェクトは華を「添える」からエフェクトなのであり、そうできる人が優れた特殊効果の使い手なのです。
そして、それは逆説的に、ツールに頼らずともそこがきちんと表現出来ることこそがそのPの「技術」であることを示すのではないかと思うわけですよ。自分は、機械が出力する「きれいな効果」よりも、人間が選び取る過程のほうに創意と技術を感じます*3。だから、見る側から見たら「狭い」と感じられる視点になるのかも知れません。

これは多分自分がいままでに作った動画の傾向からもなんとなく感じていただけるのではないかと思います。以前マイリストのコメントにもちょっとだけ書きましたが、エフェクトがアイドルより目立ってしまっては、本末転倒だと思うのです。「つんく♂の名は知っていても、モーニング娘。のメンバーの名前を知らない」というような"消費"のされ方は、自分にとってはあまりうれしいことではないのです。

とはいえ、ウケる要素を詰められるということはそれそのものが実力である、ということについては自分も同感です。敷居さんが「これが技術でなくてなんだというのだ」とおっしゃることもわかります。ニコマスMADの動画製作者が実際にやっていることは「ディレクター」っぽいのに、そうではなく「プロデューサー」と呼ばれるのも、そのあたりにあるのかもしれません。
初期には単純にアイマスのゲーム上での主人公の呼称という意味であり、いわゆる「借り物P」はP名ではなく「〜氏」と呼ぶ伝統があり、そしてP名は基本的に自称ではなく視聴者がタグにつけることで定着するものでしたが*4、最近では、選曲も含め、その動画を使って765アイドルのプロモーションをしているから、とも解釈できるのではないかなと思います。


実は、これって、作り手かどうか、というよりも、単純に「アイドルマスター」が好きなのか、「ニコマスMAD」が好きなのか、という話なんですよね。そして、作り手側は大概においてアイドルマスターそのものが好きな人が多いです。以前ATollPもBlogで語っておられましたが、「そもそも好きじゃなきゃ動画なんて作らない」んです。

埋もれ上手 「俺の嫁は108人までいるぞ」(ATollP)より

MADって好きな作品じゃないと作らない。まぁたまにネタで酷い扱いやらもあるけど、少なくとも無関心な作品でMADなんて作れない。
キャラそのもの、キャラの外見、二次創作なもの、いろんな好きがあって制作側はいろんな形、深さで表現する。見る立場では受け入れるか拒否するか、自分だけで判断すればいい。

膨大にある、ATollPの言う「いろんな形、深さ」のうちのひとつが、自分の考えかたであり、自分が作った動画であり、このBlogです。自分も、ATollPと態度が似ていて、あらゆるニコマス動画やそれについての言論を否定しません。でも、同様に、それに対して意見を述べることにも躊躇はしません。
ある視聴者の方にとっては、アイドルマスターそのものはどうでも良いものかもしれません。そこまで行かなくとも、比重としては薄いものかもしれません。そして、「かつて見る側だった、作り手になった人」にも、そういう方はきっと少なからずいらっしゃるでしょう。

アイドルマスター」のゲーム中では、プレイヤーはアイドルの「最初のファン」です。ゲームをプレイし始めてすぐにこの事実は提示されます。そして、一人の子のプロデュースの最終節、ラストコンサートでも、「一人のファンとして応援するだけだ!」というモノローグが入ります。
自分は、この「プロデューサー」の立場なのです。動画の作り手である以前に、まず自分は「アイドルマスター」というコンテンツの、そしてそこに登場するアイドルのファンなのです。

*1:これ、文章にするとすごくキツくみえますが、決してお二人をdisっているわけではなく、8割冗談、2割挑発的な意図で書いてます。あと花見川さんが最近更新してないことについても煽ってたり。「なんだ、またはてなムラの馴れ合いか!」という謗りは甘受しましょうw

*2:"厨房ウケ"する事を狙っている演出の意

*3:余談ですが、写真にせよ映画にせよ絵画にせよ音楽にせよ、自分はあらゆる芸術の本質は「世界から何かを切り取る」ことだと考えています

*4:だから箱○が壊れたタイミングでMADを作り始めた自分は、ゲーム上では「黒雲P」なのにニコマス上ではcocoonPである、という現象が起きたりする