にこ繭。(cocoonPのBlog)

はてなダイヤリーからインポートしたかつてのBlogの跡地です。

衝突を恐れるな。それは創意の源だ。

前のエントリが予想外に反響が大きく、その後自分でもいろいろ考えたりしています。
id:hunirakunira2 さんを悪者扱いしてしまうようなことを書いてしまったので、局所的には悪いことをしたなと思いつつも、自分は謝りません。今回の件は、お互いに想うところを述べて、それが衝突しているだけだったのですから。
マザーテレサも、"The opposite of love is not hate, but indifference.(「愛の対義語は嫌悪ではありません。無関心です。」)" と言っていますよね。互いに関心を持ち続けている限り、それは絆となります。本当に言いたいことを言えず、表面上だけニコニコ愛想よく、仲良くしているように見えるだけの関係の知人を、皆さんは「親友」と呼べるでしょうか?

そして、そういった衝突は、必ずしも不幸なことばかりもたらすのではありません。ちょうど同じころ、西岡Pが興味深いエントリをお書きになっていました。

全てが台無し―雑記帳― ニコマス的な雑記のようなもの」 より

えこPの「M@STER FONT」のコメントでは「もう俺P引退するわ」というコメが何件か有った。自分独自の方向性を持っていないPなんかは確かにあの鮮烈な映像は眩し過ぎるかもしれない。全く方向性の違うやり方をしてきた自分も何故かむちゃくちゃ焦ったもんなぁ。何とかしないと置いてかれるような焦燥感。

気持ちは自分にもとてもよくわかります。その壁は遥かに高く分厚い。自分の中の想いと、見せ付けられたステージの差、自分はあまりにも小さく儚いような気がどんどんしてくるために、不安になってしまいます。そこで「自分は自分だ」と完全に悟り切れるほど人間は出来ていませんし、かりにそうしたところでそれはどこか負け惜しみ的なのではないか、単に合理化して逃避しているだけなのではないかという考えがぐるぐる頭の中を回ります。この葛藤も一種の意識の"衝突"だと思うのです。

そしてまた同じころ、哀川翔Pが、Live for You! に関してのwhoPのエントリを見て書かれた以下のようなエントリがあります。

春香の脇を舐めたい まじきめぇwwwwwww    俺が('A`)」より

一昨日あたりにML00の附属DVDの感想で「俺の春香が遠い」みたいな感じの話を書いたと思うんですが
その時俺が感じたことと、ほぼ同じことをやはりwhoPも感じていたようです。
詳しくは上記blogの2/15の「ずっと一緒」というエントリをご覧ください。
L4Uネガキャンするわけじゃないですが(何度書いたよこれ)
情報が多く出るにつれて憂鬱になっていきます。
「ゲームはゲーム」って頭じゃ分かってるんですけどね、俺も相当頭をやられてるらしい。

言及されているwhoPのエントリはこちら。

美希フェスFINALE ずっと一緒に。」より

ML00が届いたので、付属DVDを見てみた。
新曲で躍る美希が、見知らぬ他人に見えてショックを受ける。
「知らないことが前提」の春香や千早は今までと同じ距離感で、とても可愛く見えたけど、美希だけは何だか、とても遠いところにいってしまったひとに見えた。

これも、自分の中の春香や美希、そしてゲーム中で置かれていたはずの立場が変わることによっての彼女らとの関係性という既存の心象と、L4Uでもたらされたものとのギャップ、つまりこれもまた"衝突"なのではないかと思います。

ただ、自分が彼らと違うのは、この気持ちに近い気持ちは、L4Uという黒船がやってこなくとも、常日頃から感じている点です。自分の中の美希と、他の方が作ってニコニコにアップロードしている動画の美希は、姿かたちが似ていても、別人なのです。
「終身名誉ハニー」たるwhoPには激しい嫉妬の念を覚えますが、それでも自分の中では、whoPの美希は「俺の美希」ではありません。「俺の美希」は自分自身の中にしかいないのです。「これは何か違う、俺の嫁じゃない」と感じること、それはひとつの創作のモチベーションになります。これはwhoPや哀川PがL4U!で感じる違和感と同じであり、そしてそれが創意の源になっている証左ではないでしょうか?

この気持ちを「痛い」の一言で片付け一笑に付すのは容易い事です。しかし、何かに魅入られ、その架空の世界に暮らす存在と、現実世界に生き、モニタの向こう側には決して入ることの出来ない自分自身との間の衝突を克服するために取る手段として、ものをつくることを選択する人がいる限り、世の中に創作物が提供されることが絶えることはないでしょう。プロの作品であるか、アマチュアの作ったものであるかにかかわらず、一切の創作娯楽を享受し楽しむことのない方にのみ、「痛い」と述べて否定する資格があるのではないでしょうか。

先の西岡Pのエントリについての話も、それと同じことが異なるレイヤーで起こっているだけであると言えます。立ちはだかる壁を乗り越えるのは、結局のところ自分自身でしかありません。そして、「自分」は、自身の創作物の最初の受け取り手であり、最初の批評者であり、そして最大の理解者です。自分自身に嘘を吐いて何かを作っても、その最初の評価者は決してよい評価を下さないのではないでしょうか?
だから、『評価されなくても、自分が作りたいものを作る』という時には、「自分が評価できる」という前提条件を意識すべきだと思います。逆に言えば、それさえ出来てしまえば、渦巻く不安感、意識の衝突を恐れる必要はなくなります。

自分は、常に「オレ最高!」と思って動画を作っています。だから、どんなに高い壁が立ちはだかっても、それそのものに怯むことなく作り続けることが出来ます。

whoPは、同じエントリの中で、ご自身で似たようなことを悟られているようです。動機やベクトルは違うかもしれませんが、とても共感できました。

衣装も、ダンスも、曲も、コミュも、自分で作ってしまえばいい。
少なくともそうやって美希の魅せかたを考え続ける姿勢でいれば、
そうしたら自分はwhoPという視点にとどまれるんじゃないだろうか。

多分何かものをつくっている人の多くはそうなのではないかと思うのですが、ものをつくるモチベーションは、純粋に「ものをつくりたいから」というだけではないと思います。前のエントリで書いたような承認欲求の他にも、挙げてきたような衝突を克服する手段、それも必ずしも衝突を回避するのではなく、真っ向からぶつかって玉砕しようとも、俺は俺なんだと叫ぶ自我確立のための手段として、創意というものは湧き上がるものなのではないでしょうか。

親愛なるアニキへ

だから、哀川P、嘆いていないで前を向いて歩きましょうよ。あなたには、稀代のストーリーテラーとして「俺の春香」を謳いあげた実績があるじゃないですか。我々は、どこでも行きたいところに行けるんです。まっすぐに、ね。